「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘 玲)

「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘 玲)

「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘 玲)の「第 2 章 自分は変えられるか?」の「2 『20 世紀少年』とトリックスター」109 ページより。

二〇〇〇年十二月三十一日、“血の大みそか”。世界各地で同時多発テロが起き、致死性のウイルスが撒かれ、東京にはすべてを破壊するロボットが現れた——。浦沢直樹の『20 世紀少年』で主人公のケンヂは、世界の滅亡を企てる悪の秘密組織“ともだち”と戦うために、幼なじみとともに立ち上がる。映画化もされたこの物語は、「友だち」とはなにかをとてもよく表わしている。

一九六九年、大阪万博を翌年に控えた小学校四年生の夏。ケンヂと仲間たちは、原っぱに秘密基地をつくり、正義のヒーローと悪の組織が戦う“よげんの書”を書いた。卒業の年、ボウリング場建設のため原っぱは整地され、“よげんの書”はタイムカプセルに埋められた。

中学生になってロックに目覚めたケンヂは、学校の放送室を占拠してグラムロックバンド、T・レックスのヒット曲「20th Century Boy(20 世紀少年)」を大音量で流す。だがプロを目指して学生バンドを結成しデビューしたもののすぐに挫折、いまは実家のコンビニで母親と二人で姉の子どもを育てている。

物語はケンヂが、カルト教団“ともだち”と“よげんの書”との奇妙な符合に気づくところから始まる。忍者ハットリくんのお面をかぶったカルト教団のリーダーは、生物兵器によるテロや空港爆破など、“よげんの書”に描かれたとおりに事件を起こしていた。

“ともだち”の秘密を追求し、窮地に陥ったケンヂを助けるために、オッチョ、ユキジ、ヨシツネなどかつての仲間たちが集まってくる。大人になった彼らは、バンコクで裏社会の仕事をしていたり、税関職員やエリートビジネスマンだったり、卒業以来なんの交流もなかった。それが二十五年ぶりに再会したケンヂのために、喜んで命を賭けるのだ——なぜなら、友だちだから。

ところでこの話は、よく考えるとちょっとヘンだ。ケンヂには、中学・高校・大学とたくさんの友だちがいたはずだけれど、大学時代のバンド仲間を除いて、彼らはこの物語にはまったく登場しない。オッチョやユキジ、ヨシツネなどの幼なじみも同じで、これまでの人生で築きあげてきたはずの交友関係は物語からすべて排除されている。もちろん登場人物の人間関係をいちいち数えあげたら話が進まなくなるからだけれど、ここでいいたいのはそういうことじゃない。

読者や観客であるぼくたちは、このずいぶんと無理のある設定(物語の枠組)を無条件に受け入れている。なぜだろう?

それは、作者とぼくたちが“友だちの本質”を共有しているからだ。

友だちは、小学校・中学校・高校(幼稚園や大学でもいいけど)の同級生の間でしか結ばれないきわめて特殊な人間関係だ。学年がひとつちがうだけで、先輩や後輩と呼ばれるようになり、純粋な友情は成立しなくなる。

さらに友だちには、世代ごとに切り分けられ、互いに交じり合うことがないという、もうひとつの際立った特徴がある。中学校に進んで新しい友だち関係ができても、ふつうは小学校の友だちを紹介したりしない。

ふだんは意識していないけれど、ぼくたちはみんな、友だちのこうした排他性に気づいている。『20 世紀少年』の物語には、秘密基地で遊んだ小学校の同級生以外の、“別の”友だちは出てきてはいけないのだ。

同「3 友だちのいないスモールワールド」147 ページより。

ぼくは『20 世紀少年』の登場人物たちと同い年で、一九七〇年の万国博覧会のときは小学校五年生だった。その頃はみんなと同じように、友だちが生活のすべてだった。

だけど大人になるにつれて、友だちはぼくの人生から消えていった。残念だけど、これは仕方のないことだ。

愛情や友情が支配する政治空間では「お前は何者なのか」が常に問われ、集団のルールを知らなかったり、空気を読めなかったりすると仲間から排除されてしまう。みんなから認められ居場所を与えられるためには、周囲に合わせて「わたし」を変えていかなくてはならない。

それに対して貨幣空間は、ありのままの「わたし」を受け入れてくれる。愛情や友情に不器用で社会に適応できなかったひとたちも、貨幣空間ならなんの問題もなく生きていける。なぜなら、「わたし」が誰かはどうでもいいことだから。

カルト教団の教祖となった“ともだち”は、この残酷な事実を受け入れることができなかった。だからこそ彼は、自らの手で「友だちが友だちのままで存在する」グロテスクな未来を創造したのだ。